毎日が息苦しいと思ったら散歩でもしてみよう

今年は様々なところで、生き方の転換点を求められている人がいる。
私もそのうちの一人で、昨年7月から家を捨てて夫婦でアドレスホッパーをやっている。

お金の為だけにやる仕事は全部辞めてみた。
仕事というものと、人生というものをもっと上手に統合しようと思ったからだ。

正直不安が大きかったのは事実。
収入的には大幅に少なくなるし、少なくとも会社の経営サイドにいた人間としては、
数字の価値=自分の価値みたいな感覚になってしまうところもある。

私自身が何か変わったわけではないにも関わらず、
自分の価値が落ちてしまったんじゃないか。
そんな気がしてしまうのだ。

それでも、だからこそ辞めてみた。
辞めてみると、不安や痛みと共にいろいろな学びが見えてくる。

まず、お陰様で周りには素敵な人がたくさんいてくれたということに気づけたこと。

仲の良い人たちは、自分のことを仕事や年収で測ったりはしないし、
何より愛するゆめちゃんもそんな次元で生きてない。

家を失くして「旅してます!」って言ったら、

「面白いね! 泊まりに来てよ!」

と言ってくれる人もいる。
時間ができたことを見て

「遠隔でできる仕事を一緒に何か作ろうよ」

と、誘ってくれる事業家仲間もいる。
正直家族に関しては揉め事ばかりの中で育ってきたので、
こんなに周囲に良い人が居てくれることが、本当にありがたいなと思う。

家族に関してはもっとうまくやれたことも、今考えるとあっただろう、
という感覚と、それでもあの時ああしなければ自分がもっと苦しくなった、
という感覚を両方持っている。

そんな風に家族のことを思い出していると、
苦しみの中には大きな気づきがたくさんあると、改めて認識できた。

旅の中で感じている漠然とした不安や、
人を通して思い起こされる家族への感情と向き合っていると

「これらの現象を通してどんどんと自分を純粋化させているのだな」

ということに着地する。

私たちは生まれ、育つ中でいろいろな価値観を渡される。

・生きるということはこういうことだ
・途中でやめることは格好悪い
・仕事とは辛いものだ
・我慢するということは素晴らしい
・家族とはこうあるべきだ
・成功するためにはこうしなければならない

両手で持ちきれないほどのプレゼントを渡されて、
私たちは「こうあるべき」「これが幸せ」「これが正しい」と、
窮屈になっていく。

自分の感情や、考え、想いはさておき、と。

気づけば自分が持っているものは、誰かが

「これは大事なものだから持っていてね」

と渡してきたものばかりで、
自分が大切にしたかったものかどうかがすっかりわからない。

そんなことになっているのかもしれない。

今日はそんなことに気づいたお世話になっている経営者のKさんと一緒に
のんびり散歩に出かけてみた。

Kさんも経営を10年以上されていたが、

「誰かに縛られたくないと思っていたから会社を作ったのに、
気づいたら自分の作った会社に雇われている感覚だったんだよね」

と語ってくれた。

本当はのんびりしたいのに、起業家とはかくあるべき、
というイメージに自らを寄せていたそう。

Kさんは一人で出かけた先を散策するのが好きらしい。
この道を曲がると何があるのか、とか
この建物が朽ちた背景にはどんな理由があったのか、とか
この坂を登ったらどんな風景が待っているのか、とか。
そんなことが気になるそうだ。

少年のような冒険心だと思う。

1日一緒に居させていただいて、ちょっとわかるところもあるけれど、
私は一人でその冒険心をそこまで楽しめないだろうと感じた。

でもKさんにとってはそれがワクワクすること。
本当はそれでいい。

誰かのワクワクが自分のものである必要はないし、
自分のワクワクが誰かのためである必要もない。

己の純粋化された想いと、世間から求められる姿がかみ合わないと
心と体が分断された気持ちになる。

だから無理して頑張って、成果を上げた後疲弊してしまう。
Kさんもそんな感覚を繰り返してきたそうだ。

そして、昨年あたりからもっと自分の思う通りに生きてみようという気持ちが強くなったと言う。

それが許される時代になった。今の世の中はあらゆるものが足りている。
散歩の途中で出会った『松陰神社』参拝の道すがら、話していてそんなことを思った。

みんな足りていないと言っているが、
それこそ明治維新の時代に比べたら格段に生活がよくなっている。

ベースとしてそうなっているのだから、
もっと自由に生きて良い。

自由というのはただ無為に自堕落に暮らすことではない。
自分の魂の喜びに従って、自分を最高に活かして生きることだ。

すべてのものを効率化していき、
仕事から人間性を捨てていくことが求められた時代があった。
その結果、現在・未来に希望が持てなくて、ただ毎日を消費する人が増えた。

でもその時代の要請も終わっている。

だから今度は人間らしく、仕事に尊厳を取り戻して楽しみながらやっていく。
そんな時代にしようというエネルギーを感じるのだ。

日本の神様たちは騒がしい。なんでも神様が宿っている。
人間だって死んで祀られたら神様になってしまう。

そんなたくさんの神様が居る神社に来ると、
時代を去った人たちが

「お前の時代なんだから好きにやんなよ」

と、笑いながら語りかけてくれる気がするのだ。

今、生きることが苦しかったり辛かったりしたら、
散歩でもして自分の心の赴くままにあるいてみよう。

心が動くものに従ってあるいていけば、
本当に何がしたかったのかが見つかるかもしれない。

生き方に迷っている人が居たなら文蔵まで連絡をくれれば、
相手をするくらいはできると思う。

仕事がなくても、家がなくても、生きていくことはできる。
今の時代は十分豊かだ。

それがなぜできない気がするのか、そういった心理構造ならたくさん話ができる。
一緒に話をしよう。

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